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三浦館の歴史と概要

歴史
三浦家は、中世相模国(現・神奈川県)の豪族三浦一族の子孫。

桓武天皇の第四子「葛原親王(かずらわらしんのう)」の御孫「高望王(たかもちおう)」が平氏を賜って関東に下向。
その数代後「平為継(たいらのためつぐ)」が現在の神奈川県三浦半島の衣笠城に居住し「三浦平太」と姓を改めたのが三浦家の元祖となっている。

康平5年(1062年)「平為通(たいらのためみち)」の時、源陸奥守頼義(みなもとのむつのかみよりよし)に従い、前九年の役で戦功を立てた恩賞として、三浦半島全部を知行に賜った。本拠地として衣笠城を築き、三浦姓を称して関東に定着するようになる。

平安末期になると史書に「三浦大介義明」(みうらだいすけよしあき)という人物が登場する。
この頃は源氏と平氏が戦をしていた時期で、義明は源頼朝の源氏再興に協力する。また、義明の子の義澄にも兵をつけて援軍を出した。
その後義明は戦中、衣笠城で自害するが、源氏が平氏を打ち破る。

義澄は源氏が鎌倉幕府を開くにあたり尽力し相模守護となった。
その後政権は源氏から北条氏に移り変わる。
三浦泰村の時、北条氏の外戚として権勢を振ったが北条氏と戦になり三浦一族が敗れる。



この三浦家に関係する三浦の名前が出てくるのは今から約450年前。
始祖である、三浦兵庫頭盛永(みうらひょうごのかみもりなが)である。

当時の秋田は安東氏という武将が兄弟で秋田を二分していた。
北は桧山安東(檜山城城主の安東城之助)。
南は湊安東(土崎湊城城主の安東太郎実季)。

盛永は湊安東側の家臣として浦城に居城し、八郎潟((現・秋田県南秋田郡八郎潟))一帯を治めていた。

その後桧山安東と湊安東の内紛が勃発し、盛永はその内紛に参戦する。

戦の結末は土崎湊城が落城。最終的に安東家の内紛は残党征伐のための浦城攻撃へと的が絞られ、城之助側が浦城を一気に攻略する。
盛永は切腹し、浦城は火をかけられ壊滅した。

浦城は落城したが、盛永の子、盛宗(幼名を亀若)は母に抱えられ秋田郡岩城村に落ち着き隠れる。
それを哀れんだ岩城城の城主「新庄岩見守」により亀若は養育された。
その後天正6年(1578年)に新庄岩見守の城も落ちたので、片田村臨済宗普明院へ入り、それから黒川村に住居を構えて帰農した。

三浦盛宗を初代として寛文年間(1661〜1673)に4代、宗安が黒川村の肝煎(村を治める役)を務めたのを始め、代々肝煎役を継承し、天保7年(1836)には郷士となる。

※上記歴史は三浦家代々記を参照

概要
約4,000千坪の敷地の中に、茅葺き民家では東北地方で最大級の平面積の主屋を中心に、表門、土蔵、文庫蔵、味噌蔵、米蔵、鎮守社、馬小屋と計8棟が建っている。主屋南側には、見下ろしの回遊式日本庭園が広がっていて、江戸時代末期の面影を偲ぶことができる。

これらの建物は、江戸時代における秋田地方大民家の発達の頂点を示す重要な建物として、文化的価値を高く評価され、平成12年から4年の歳月をかけて保存修復工事が行われた。
平成18年、全ての建物と宅地が国指定重要文化財になり、現在、名称を三浦館(みうらやかた)とし、三浦館保存会が維持管理を中心にその活動を行っている。

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